あの日までの10年、あの日からの10年、ここからの10年
80代に入りながらも、カラカラとよく笑いながら快活な語り口が印象的な佐藤さん。20歳の時、海苔と牡蠣の養殖漁師になり、両親と一緒に木造のポンポン船で海に出ていたそうで、「この辺りの人たちはほぼ9割、海苔に関わる仕事をしていたよ」と振り返ります。松島湾で育った海苔の品質は高い評価を得ていて、浅草海苔のブランドを支えていたほど。競うように中央へ海苔の出荷が行われていましたが、昭和40年代に入ってから機械化の波が押し寄せ、設備投資が難しい漁師たちが次々と廃業。その数を半分以下に減らしてしまいました。佐藤さんもサラリーマンに転身し、仙台市卸売市場や東北石油でさまざまな仕事に携わったそうです。65歳まで勤め上げた後にリタイア。今は自宅の敷地で畑仕事や庭造りに精を出す毎日を過ごしています。
佐藤さんが大きな揺れを感じたのは、七ヶ浜町役場の近くにあるシルバー人材センターで行われていた理事会がちょうど終了した頃。揺れが小さくなったのを見計らい、マイカーで自宅に急ぎました。浜のほど近くに家屋があるため、念のためドアに施錠をして奥様と長男のお嫁さんに避難を促しました。お孫さんたちは高台の学校にいたので、お嫁さんに「子どもたちには、絶対に自宅へ戻ってはダメだよと釘を刺しなさい」と、何度も言い含めたそうです。実は佐藤さん、1960年のチリ地震による津波を経験。また、祖母からも、身の守りを第一に高台へ逃げろと固く教えられていたそうで、「今も、耳から離れない教訓だね」と語ります。それでも、この震災ではあまりに慌てていたらしく、「クルマに乗ろうとした時、足下を見たら革靴だったんだよね。波が引いて自宅に戻ったら長靴に履き替えようと思っていたんだけど、家が浸水して泥だらけになっていて。今では笑い話になっちゃったけど」と、ばつ悪そうな笑顔で話してくれました。
地域住民は公民館で避難生活に入りましたが、スペースに余裕がなかったためマイクロバスを確保し、佐藤さん一家は車内で寝泊りをしていました。そこで地区の会計を担いながら、飲料水や発電機の確保、近隣の農家から野菜や米を分けてもらい炊き出しの用意、支援物資の配給などに奔走。不便極まりない2週間を過ごした後、友人宅でお世話になってほっと息をついたそうです。
当時を思い浮かべながら、「歳を取れば、走って逃げるなんてできなくなるし、人の世話になることも考えなければいけない。だから、非常時こそ助け合えるように、隣近所で良好なつきあいをしておくのが大事だと思うんだよ」と佐藤さん。さらに、「今、地元老人会の会長を任されているけど、お花見や芋煮会などを通して、みんなで楽しみを分かち合う機会づくりに努めているんです。隣近所なのに口もきかないから、こちらも知らんぷりしようなんて誰も考えないように、普段から地域の和を育んでいきたいね」と、目を細めながら語ってくれました。