あの日までの10年、あの日からの10年、ここからの10年
渡邊さんが幼かった頃は、菖蒲田浜地区の子どもたちの遊び場はやはり海でした。「夏休みになるとほぼ毎日、海水浴をしていましたね。泳げない子なんていなかった。それに、今より砂浜が広々としていたので、グラウンド代わりに野球の試合もできたんですよ」と、目を細めながら思い出を語ります。震災前まで暮らしていた家のすぐ目の前には漁港があったので、心地よい波の音と潮風をいつもそばで感じられる日々を過ごしていました。それだけに、震災直後の光景を目の当たりした渡邊さんは、にわかに現状を理解することができなかったそうです。2017年に、海水浴場が本格オープンした際はうれしく思いながらも、「この地区には商店街が無い。レストランやカフェなどもほとんど無い。せっかく海が楽しめるようになったのに、もったいないですよね」と残念がります。
仙台市内の企業に勤めていた渡邊さんは、青葉区一番町で被災。交通機関がすべて利用できなくなったので、徒歩で七ヶ浜町へ帰ろうと試みました。しかし、国道45号線をたどり宮城野区中野栄に差し掛かると水が行く手を阻み、それ以上進むことができませんでした。そこで、避難所となっていた近くの中野栄小学校へ向かうことに。校舎はすでに避難者であふれかえっていたので、廊下で凍えながら朝を待ちました。次の日は水が引いていたので先を進み、多賀城市下馬の病院で七ヶ浜町の知人と再会。幸運にも、自動車に同乗させてもらうことができました。
七ヶ浜町の中でも、菖蒲田浜地区の津波被害は甚大で、高い場所から自宅のある方角を見て呆然としたという渡邊さん。ひとまず、避難所となった松ヶ浜小学校の体育館に身を寄せます。家族と連絡をとれたのは1週間後。そして、吉田浜地区にある奥様の実家で暮らすことになり、そこから会社勤めを再開しました。1カ月経った頃、七ヶ浜中学校の仮設住宅が建設終了し、渡邊さん一家はそちらへ移住。ここで3年8カ月過ごした後、中田地区の土地を取得することができ、現在の住まいを再建しました。
菖蒲田浜地区の区長に就任したのは、震災による困難が未だ収まらないさなか。「自宅を失った人がたくさんいたので、地域の住民はバラバラに離散していた状況でした」と振り返ります。災害公営住宅が完成し、町民の高台移転などの気運も高まってきた頃、七ヶ浜町役場の復興推進課が精力的に動き、各区長と町との打ち合わせやワークショップなどを盛んに実施。「そのおかげで、他の市町よりも比較的スムーズに入居や移転が進んだような気がします」と話します。
震災以後、ストレスや不安を感じていた住民もたくさんいたそうですが、「昔から、この地域の人たちに“隣組”の精神が息づいているので、大きなもめごとはありませんでしたね」と渡邊さん。しかし、町民の高齢化や災害公営住宅での孤立も目立つようになり、隣近所の結びつきが薄れていくのではと憂慮しています。そんな地域の課題を見つめながら、「隣組の関係性を大事にしてきた伝統はこれからも持ち続け、気軽な交流の機会をもっと作っていければと考えています。いつも行事に参加しているメンバーが、新しい誰かに声をかけて楽しむを分かち合う。そうやって人の輪を広げていければいいですね」と展望を語ってくれました。