その時、石巻では<19> 物資提供と出帆

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 仙台藩では榎本艦隊を期待していました。しかし、彼は徳川家の行く末に見通しがつくまで動きませんでした。榎本艦隊が品川沖を出発したのは、1868(慶応4)年8月19日です。途中、銚子沖で嵐に遭い、艦隊は離れ離れになりますが、26日に開陽丸は仙台湾に到着しました。それ以後、他の船も遅れながらも仙台湾に集結します。そして、寒風沢(さぶさわ)、東名に停泊して船の破損箇所を修理しました。

 榎本艦隊が仙台領に入ったことを知って、奥羽各地の戦いで敗れた将兵は仙台に集まってきます。

 しかし、榎本艦隊が到着するまでの間に、事態は大きく動いていました。8月23日には、会津若松城下に新政府軍がなだれ込み、会津軍は鶴ケ城で籠城をするようになっていましたし、仙台藩内でも降伏が語られるようになり、増田歴治は藩主慶邦に降伏を進めるようになっていました。

 このように戦局が勝利とは程遠い状態に傾いてしまってからの榎本艦隊の来航は、大勢に影響を与えることはできませんでした。それどころか、榎本武揚(たけあき)は、青葉城での軍議で、陸路仙台入りした新撰組(しんせんぐみ)の土方歳三(ひじかたとしぞう)とともに、降伏の不利を力説します。城中での大激論の末、藩主慶邦の最終決断で仙台藩は降伏と決します。9月11日のことでした。

 やがて新政府軍が仙台城下に進駐してきます。こうなりますと、榎本ら旧幕府軍の人たちの存在が微妙なものとなります。この人たちは、9月18日から20日にかけて仙台から撤退し石巻方面に移動しましたが、領内に留まっていられること自体、藩としては迷惑なことです。まして、降伏に反対する藩士たちと結びつき行動を起こされる可能性があり、それを恐れました。

 そこで藩では、彼らに物資を提供して領内から立ち退いてもらう策に出ました。しかし、藩では財政的にその資金はありませんでした。そこで、出入司(しゅつにゅうつかさ)松倉恂が石巻村住吉の毛利屋理兵衛に物資の供与方を懇願します。

 彼はこれまでも藩に協力していて、榎本や土方の石巻における宿舎も提供しています。道路に面した建物の2階で平書院造りの京間15畳(控えの間は10畳)です。なお、この建物は取り壊され現存していません。

 毛利屋理兵衛は、食糧、燃料、薬品、生活用品など48品目を用意しました。

 10月3日、土方歳三は部下と共に石巻から渡波に行き、港の状況を点検し、その夜、宿に地元の有力者を集め3両1分の酒代をはずみ、折浜までの海上輸送に要する伝馬船と人夫の借用方を要請しています。毛利が渡波まで運び、運搬船の待機する折浜までは土方の宰領(さいりょう)で運ばれました。

 こうして榎本艦隊は、10月12日に折浜を出帆します。蝦夷地(えぞち)(北海道)までの運搬船は、地元で徴発された船が使われました。

 渡波の利惣兵衛屋は、持ち船5隻差し出せと言われ、3隻しかないと言うと、2隻分は金で払え、さもなくば手討ちに致すと恐喝されています。

 門脇の清水川屋新太郎の場合、北上川口で、旧幕府軍兵士によって船ごと拉致されて、物資運搬をさせられました。宮古まで行った段階で、自分の船は小さいので箱舘(現在の函館市)行きは無理なので乗組員ともども帰してほしいと懇願しますが許されず、配下の乗組員は脱出して船で帰郷できましたが、船と本人は箱舘まで連れて行かれ、以後の消息は途絶えました。明治2年7月のある日、死を暗示するように清水川家の玄関先の提灯(ちょうちん)が消えました。同家では以後この日を新太郎の命日にしたそうです。

 桑名藩の谷口四郎兵衛日記には「十二日出帆仙台金花山沖ニ夜中岩ニ乗揚アリシ一挺ヲ捨」とあり、出帆後、遭難した運搬船もあったことが分かります。

(石巻市芸術文化振興財団理事長・阿部和夫)