その時、石巻では<20> 榎本艦隊に乗船した人々

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 桑名藩(三重県)の谷口四郎兵衛が書き残した日記があります。

 桑名藩の藩主は松平定敬(まつだいらさだあき)ですが、彼は京都所司代として、京都守護職である兄の会津藩主松平容保(まつだいらかたもり)とともに徳川幕府のために尽力しました。戊辰戦争が起こって4日目に、将軍徳川慶喜(とくがわよしのぶ)が大坂城から江戸に脱出する際に、定敬は兄容保と一緒に将軍に同行しました。

 一方、藩主定敬が不在であった桑名城では、新政府軍の味方とならざるを得ない状態となってしまいました。そのため、桑名藩の家臣は、地元にいる人は新政府側となり、藩主定敬に付き従っていた人たちは旧幕府軍側とに分かれるという複雑な状況になりました。

 谷口四郎兵衛は、藩主定敬に従っていた家臣です。彼を含む桑名藩兵は人数も少ないので、新撰組(しんせんぐみ)に所属することになりました。

 彼の日記を読むと、石巻周辺の10月の様子が分かります。「十月朔日(さくじつ)石之港ニ行諸兵止陣ス山上広野ニ諸兵整列日々佛ブリュ子(ね)ー傳習ス」とあり、10月1日に石巻に入り陣を構えました。そしてフランス人ブリューネの指揮で軍事教練をしていることが分かります。その演習場所が日和山でした。

 一行は、10月7日に渡波に移動していますが、その時のことを「和田ノ波浦止陣休兵ス」と書いてあり、「渡波(ワタノハ)」のことを、当時のこの土地の人々が発音していたであろう「ワダノハ」と言う発音通り、地名を「和田ノ波浦」と書いたものと思われます。10日に折浜(おりのはま)に行き、そこに停泊している大江丸に乗り組みました。

 この桑名藩士や新撰組の土方歳三(ひじかたとしぞう)の他にも、折浜で榎本武揚(えのもとたけあき)の艦隊に乗り込み、石巻から蝦夷地(えぞち)(北海道)に渡った人たちがいます。

 仙台藩からは、星恂太郎(ほしじゅんたろう)率いる額兵隊員250人、松本要人(まつもとかなめ)(奉行)金成善左衛門(かなりぜんざえもん)(軍監)、鴫原(しぎはら)長太郎など仙台藩の重臣、藩医なども加わっていました。

 その他歴史上有名な人たちも乗り組んでいます。名前の下に括弧書きしたのは就いていた地位や立場です。
・榎本武揚〔海軍総裁開陽丸艦長〕
・松平定敬〔桑名藩主〕
・板倉勝靜(いたくらかつきよ)〔老中、備中松山藩主〕
・小笠原長行(おがさわらながみち)〔老中、外国事務総裁唐津藩世子〕
・竹中重固(たけなかしげかた)〔幕府陸軍奉行〕
・西郷頼母(さいごうたのも)〔会津藩家老〕
・小野権之丞〔会津藩重臣〕
・三宅八兵衛〔桑名藩家老〕
・青地源次郎〔桑名藩家老〕
・大鳥圭介〔幕府歩兵奉行〕
・高松凌雲(たかまつりょううん)〔一橋家表医師〕
・古谷作左衛門〔衝鋒隊(しょうほうたい)を編成、高松凌雲の実兄〕
・ブリューネ大尉〔フランス軍事顧問団〕
・カズーヌフ伍長〔フランス軍事顧問団〕

 この中で、出帆後も石巻との縁が続いた人がいます。開陽丸の乗組員で出帆前に亡くなった中井初次郎の墓は、桃浦の洞仙寺にあります。その墓碑銘は山中清翁という偽名で小笠原長行が執筆しています。

 また、彼の長男小笠原長生(おがさわらながなり)は、東郷平八郎の副官をしていた縁で、かつて父親が滞在していた土地に石巻の人々が、1922(大正11)年に「欧南使士 支倉六右衛門常長解纜地」という石碑(高さ4.3メートル、幅1メートル)を月浦に建立する際、日露戦争で有名な東郷平八郎にその揮毫(きごう)を依頼し実現しています。

 軍人であり絵をたしなんだブリューネは、石巻滞在中にスケッチを残しています。北上川門脇河岸に係留してある千石船を描いたものです。

 私たちは、戊辰戦争の結果を知った上で、当時のことに思いを巡らせていますが、その時の石巻の人々は、後の世で有名となる人たちが来ていることなど意識せず、ひたすら石巻で戦いが起こらないでほしいと願っていたに違いありません。

(石巻市芸術文化振興財団理事長・阿部和夫)