その時、石巻では<21> 女性をめぐり命のやりとり

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 1868(慶応4)年10月12日。石巻では旧幕府軍の脱出、新政府軍の進攻と言う大きな出来事のあったこの日に、仙台城下で石巻の人が肥後(現熊本県)の細川藩を巻き込んでのトラブルを起こしていました。1カ月前の9月8日にはすでに「明治」と改元されていたのですが、仙台藩には知らせがなく、この地域の人にとってはまだ慶応4年が続いていました。

 石巻村仲町の百姓黒田屋順蔵の息子である鈴木熊五郎は、仙台藩の聚義隊(しゅうぎたい)小竹長兵衛の組の伍長で、仙台にいました。彼は、城下原町(はらのまち)の茶屋にいる女性に思いを寄せ、そこに通っていました。しかし、同じ隊の中にもその女性を目当てに通っている男(名前は不詳)がいました。

 10月12日の夜、鈴木熊五郎は、同じ隊にいる岩谷堂(現奥州市)出身の山田健次郎と山ノ目(現一関市)出身の小鈴徳米兵衛と一緒に、酔った勢いでいつもの茶屋に押しかけました。すると自分が好きな女性と戯れている男がいました。熊五郎は、それが同じ隊にいる恋敵だと感じました。そこで彼は、山田健次郎と小鈴徳米兵衛の2人に加勢を頼み、棒を持ってその男に打ち掛かりました。その男は刀を抜き戦いましたが、3人にはかなわず、負傷した上、刀を奪われて逃げ出しました。

 その時、仙台藩の塩森左馬之助が部下を率いて通りかかり、その状況を見て驚き、熊五郎、健次郎、徳米兵衛の3人を牢(ろう)に入れることにしました。負傷した男は聚義隊の隊員ではありませんでした。新政府軍として仙台に進駐していた細川藩の侍、村島寿三郎でした。彼もまた原町のその茶屋女に通っていたのです。

 事情を聴いた仙台藩の執政(上役)は翌13日、参政の増田歴治と医師を北鍜冶町にあった村島寿三郎の宿舎に派遣して見舞いをしました。仙台藩ではそれだけでなく、監察の桜田春三郎を派遣して、事情を述べ謝罪をすることにしていました。

 この事件に対する仙台藩と細川藩の見解、対応に違いがありました。

 仙台藩では、事件を起こした立場であり、ひたすら謝り事を大きくしたくない、新政府軍から過大な要求を突き付けられたくないという思いが働いたと思います。

 細川藩では、村島寿三郎が、茶屋に出入りしたこと、また、争って刀を奪われ負傷して逃げ帰ったことを恥辱として、この事件を隠蔽(いんぺい)するはずでした。しかし、仙台藩の増田参政から公式に見舞いに来られては、隠蔽するわけにはいかず、細川藩としては、藩の面目を保つため、村島寿三郎に切腹させるしか道は残されていませんでした。

 桜田春三郎が陳謝のため細川藩の宿舎を訪れた時、対応に出た寿三郎の同僚の口上は以下のようなものでした。

 「寿三郎はただ今切腹を致しました。拙者が介錯を致したところです」

 それを聞き、桜田春三郎は驚き、村島寿三郎の遺体を確認して「この上は、仙台藩の相手方の者を法に照らして処分をし、おわび致します」と述べてその場を去りました。

 その夜、松坂右膳を御検使役として獄舎で熊五郎、健次郎、徳米兵衛の3人の処刑が行われました。処刑前、3人には以下のことが申し渡されました。「その方どもは、この重要な時期、謹慎中であることもわきまえず、肥後藩村島寿三郎と口論の上打ち合い、互いに負傷し、寿三郎は死に至ったそうである。重き罪であるので切り捨てを申し付けられるものである」

 翌14日、桜田春三郎は松坂を伴い細川藩参謀の宿舎を訪ね、3人の首級を差し出して陳謝しましたが解決せずに、15日には仙台城下北山の東昌寺にあった細川藩米田総督の宿舎を、執政遠藤文七郎が訪ねてやっと解決をみました。

(石巻市芸術文化振興財団理事長・阿部和夫)