翌朝、高田屋嘉兵衛はディアナ号に乗り込み、錨(いかり)を上げたディアナ号を箱館湾に誘導し波の少ない一番安全なところに錨を下ろさせた。
ここでディアナ号は大小さまざまの何百もの小舟に取り囲まれる。この舟にはヨーロッパの船を見たいという好奇心に駆り立てられた老若男女が乗り組んでいた。役人の制止するのも聞かずに近寄ってくる民衆に、ディアナ号の乗組員たちは驚かされる。
この光景を珍しそうに見ていた善六は、活気にあふれていた石巻の港の風景が、ふとよみがえってきた。そしてぽつりと「日本さ帰ってきたんだなあ」とつぶやいたのを隣で見ていた久蔵が耳にした。
29日朝、ディアナ号を訪れた嘉兵衛にリコルドは、オホーツクの港湾長官ミニツキイが書いた公文書を手渡した。嘉兵衛はイルクーツク県知事の公文書も自分に預けてはくれないかと言ってきたが、これだけは松前藩高官との会見の席で直接渡したいと、リコルドは拒否する。
リコルドからこの手紙を受け取った嘉兵衛は早速、松前藩に持ち帰り、幕府が今回の交渉のために江戸から派遣した2人の通詞役人足立左内と馬場左十郎の手に渡った。善六が訳した文にはほとんど目もくれず、この2人と松前藩の2人の通詞村上貞助、上原熊次郎の4人によって翻訳文が作られる。
オホーツク港湾長官ミニツキイの公文書は正式にロシアの非を謝罪したもので、日本側の意に十分かなうものであった。ゴローヴニン釈放のために正式会談を開く準備が整った。
9月30日、嘉兵衛がディアナ号を訪れ、昨日高官にオホーツク長官の書簡を手渡したところ、日本側はロシア側の釈明に満足していたとリコルドに告げる。このあと善六は、嘉兵衛とリコルドが正式な日露交渉のために細かい打ち合わせをするのに立ち会った。全て段取りが整い、嘉兵衛は、明日12時に迎えに来ることを約束して、ディアナ号をあとにした。
この夜リコルドは善六を部屋に呼ぶ。幕府の役人たちが、善六が日本人であることを知った場合、善六に危険が及ぶことを心配したリコルドは、このことを善六に確かめる。
「君は自分の国の法律のことは私よりよく知っているから、私と一緒に上陸しても危険がないかどうかよく考えてほしい」
リコルドの目をしっかりと見つめながら善六はこう答えた。「私が何を恐れるというのですか。あなたを捕らえるなら、そのときは全員を捕虜にするのではないでしょうか。私一人を捕らえることはあり得ないでしょう。私は日本人ではありません。通訳としての職務が果たせるようにどうか私を連れて上陸して下さい。陸上での両長官との交渉こそ、今度の事件で最も重要です。本艦上での嘉兵衛との話では、私はあまり役に立たないのです。もし艦長が私を陸上に伴って行かないのなら、私は何のためにこの長い航海の苦労に耐えてきたのか分からなくなります」
何のためらいもなく、あえて危険なところに飛びこもうとする善六の決意には全く揺るぎがなかった。リコルドはこの答えを聞いて、大きくうなずき、下士官2人を呼び、上陸の準備をするように命じた。
善六にとって「長い航海」とは、オホーツクから箱館までの旅のことではなかった。漂流民として石巻からロシアにまでやって来てしまった、自分の運命をなぞった言葉だった。
リコルドの部屋を出た善六は甲板に立ち、一人暗い海を見つめていた。そして海に向かってこうつぶやいていた。「俺は、日本人でもねえし、おろしあ人でもねえ、タビのヒトなんだ」と。
(大島幹雄・作)