善六ものがたり〈55〉 第7部・箱館(4)日露会談その1

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 10月1日昼すぎ、高田屋嘉兵衛が、奉行の儀礼船に乗ってディアナ号にやってきた。陸上からの合図を待って、リコルドは善六と2人の士官、さらに10人の水兵を従えて、この船に乗り込んだ。船尾には日本の旗の間にロシアの軍艦旗が立てられてあった。

 何百もの小舟が、この光景を見ようと、善六たちが乗り込んだ船の周りを取り巻いていた。

 会見は、沖の口と呼ばれていた海岸近く、石の埠頭(ふとう)の横に建てられた家屋の中で行われた。

 嘉兵衛がまず上陸して、ロシア人が到着したことを報告するためにこの中に入った。間もなく戻った嘉兵衛が、高官が会見場で待っていると告げると、リコルドは、下士官と護衛兵に上陸するように命じた。その後にリコルドが上陸したのち、善六が続いた。

 一歩、大地に足を踏み降ろしたときだった。善六の胸にこみ上げてくるものがあった。たとえ故郷石巻ではなく箱館であったとしても、ここは間違いなく、二度と踏むことがないと思った日本の大地なのである。しかし一世一代の大舞台はこれから始まる、胸の高ぶりを懸命に抑え、善六は唇をかみしめながら会見場に入っていった。

 広間には、侍たちが並んでいた。奥の席に正座している2人の高官が目に入った。リコルドはこの2人の下に少し歩み寄り、敬礼すると、2人も頭を下げ、それに答えた。リコルドが指定された肘掛け椅子に腰を下ろした。張り詰めるような重い沈黙が流れる、それをまず破ったのがリコルドであった。

 「会見場が非常に友好的な雰囲気であることを喜ばしく思う」

 善六は、これを一語一語はっきり、ゆっくりとかみしめるように日本語にしていった。2人の高官の顔に微笑が浮かんでいた。それは善六が訳したリコルドの言葉への返事の代わりのように思えた。

 善六は、精神を集中し、高官が何を言うのか、耳をそばたてた。一人の高官が、左手からやってきた役人の耳元で何か小声でささやいた。善六には何を言っているのか全く聞こえなかった。

 善六が腰を浮かして、「いま一度お聞かせ下さい」と尋ねようとした時だった。高官の下に近寄っていった役人が、自分の席に戻り、リコルドに向かって深々とお辞儀をしたあと、ロシア語で話し始めるではないか。

 「ロシア人は久しく日本沿岸に非常な不安をもたらしたが、しかしそれも間もなく、めでたく落着するであろう。われわれはオホーツク長官の釈明に極めて満足している」

 善六は、自分の耳を疑った。日本人がきれいな発音でロシア語を話している。それも自分のブロークンなロシア語とは違って、文法的にも正確なものだ。

 松前藩の通訳としてこの席に臨んだのは、村上貞助という若者であった。善六は自分が日本側もロシア側も全て通訳するものだと思っていた。日本人がロシア語を話すことに少し驚いた様子を見せたリコルドであったが、すぐにこのあいさつに対してこう答えた。

 「間もなく落着するというのは、ゴローヴニン艦長以下7人が釈放されるということと思われる。さすれば日本沿岸での今回のわれわれが経験した苦労は、この上なく愉快な職務上での時間であったといえる」

 善六は動揺を必死にこらえながら訳した。善六が訳すのを無視するかのようにまた村上が訳し、役人たちに伝えた。善六はしばし下を向いたまま、顔を上げることができなかった。

 このあと儀礼的なやりとりが交わされたあと、リコルドはイルクーツク県知事トレスキンの書簡を手渡した。高官は、「直ちに奉行にお届けするが、事の重大性からみて手紙を検討して返事をするまでには2日ほどかかるだろう」と答えた。

 そして、この家に昼餉(ひるげ)を用意しているので召し上がっていただきたいといったあと、部屋から出て行った。

(大島幹雄・作)