高官2人が退出したあと、村上貞助がうれしそうな様子でリコルドの元に駆け寄り、親しげにあいさつしながらロシア語で「早々の好都合の決着にお祝いを申し上げます。ゴローヴニン艦長とその他の方々はやがて帰還されます。みんな元気でおられます」と語り掛けてきた。
同じ席にいた馬場左十郎と足立左内も同じように近寄ってきて、祝辞を述べた。彼らはリコルドに対しては親しげに接するものの、善六に対しては無視を決めつけているようだった。
このあと松前藩が用意してくれた昼餉(ひるげ)は、善六にとって夢にまで見た懐かしい日本食と日本茶が出された。リコルドや2人の下士官が、漆塗りの器に入っているのを珍しがりながら食べるのを横目に、善六はほとんど料理に手を付けず、じっと何かに耐えようとしていた。
2時間ばかり会食したあと、リコルドたちは日本人に別れを告げ、ディアナ号に戻った。このときリコルドはディアナ号の副長官に、自分たちが陸を離れた瞬間に、旗を掲げ、満艦飾を飾るように命じておいた。
まるで花が一度に咲いたように満艦飾の旗が開くと、その美しさに、海や陸に集まっていた民衆から歓声がワーッと上がった。善六は、海上から真っ青な空に咲いた鮮やかな満艦飾の旗が開くのをうつろな目で見つめながら「俺はいなくてもよがったんだ」とつぶやいていた。
その夜、船に戻った善六の元を久蔵が訪ねた。「善六さん、どぎゃんでした。会談の方は。なんぼか疲れんさったじゃろう」という久蔵に、善六はしばらく何も答えようとしなかった。やっと口を開いた善六は「日本さは俺なんぞよりずっとうまぐおろしあの言葉ば使う人だぢがいだんだ」と言ったあと、またしばらく黙りこんだ。
久蔵が「五郎次さんじゃないんかのう」と言うと、善六は頭を横に振って「役人だった。いづの間にあいなぐうまぐおろしあの言葉ばしゃべれるようになったんだべ」と言ったままウオッカのグラスを一気に空けた。久蔵はこれ以上この場にいることが辛くなり、黙って部屋を出ていった。
翌日になって嘉兵衛が慌てた様子でディアナ号にやってきた。幕府側はゴローヴニンが解放されない場合は武力に訴えるというトレスキンの手紙に、これはどういうことなのだと怒っているというのだ。
リコルドが心配した通りになったが、嘉兵衛はロシア側の真意は武力に訴えることではない、という釈明の手紙をリコルドが書けば、ゴローヴニンを解放するということで幕府側と話しをつけてくれていた。
リコルドは早速その手紙を書いた。日本側は自分が訳した日本語の文書を読まず、村上貞助たちが訳すものしか読まないと分かっていても、善六は必死になってリコルドの手紙を訳していた。
10月7日にゴローヴニンら一行7人がロシア側に引き渡される決定が下りる。この報せを聞いたリコルドは「ウラー」と叫び、何度も「ハラショー(良かった)」とつぶやいた。善六もこのときばかりは笑みを浮かべ「良かった」と、船員たちと抱き合って喜びを分かち合った。
この日、昼に沖の口に出向いたリコルドは、ゴローヴニンたちを高橋三平、柑本兵五郎両吟味役から受け取ると同時に、松前奉行からのロシア政府への正式な「申諭」を受け取っている。幕府はここで、日本が鎖国を国策としているために通商はできないことを再度通告し、もし日本の領海に近づくならば砲撃することもあり得ると示唆していた。以前長崎で、レザーノフが受け取った回答と大して変わらない内容であった。
この儀式のあと、ゴローヴニンたちを乗せた儀礼船はディアナ号に戻った。このときディアナ号は、第1回目の会談のときと同じように、満艦飾を施したほかに、水兵たちが帆桁に並び、「ウラー(万歳)!」を唱えた。相変わらずディアナ号の周りを取り巻いていた数百の日本人見物客を乗せた小舟から、歓声のざわめきが起きた。
(大島幹雄・作)