短歌(5/19掲載)

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【佐藤 成晃 選】

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長ながと文書き母の遺(い)を告げて六十二円の葉書が届く (石巻市開北・星ゆき)

【評】実家から、母の死を伝える葉書が送られてきた場面を想像しながら鑑賞しました。葉書にはそんなに沢山のことは書けませんが、小さな文字ならばかなりの事が書けそうにも思われます。作品は下の句「六十二円の葉書が届く」で生きたのではないかと思います。この具体が読者に感動を与えているに違いありません。母の遺志がこまごまと綴られているのですが、作者の心の中には「なんで葉書で」という不満に似た心も動いたに違いありません。心の襞(ひだ)の微妙なところを描いて妙という一首だと思いました。

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厭(いと)いおりしディサービスに馴染みしや門口に待つ迎えの車を (石巻市向陽町・後藤信子)

【評】「年寄り扱いされるのが嫌だ」とよく聞きます。また現役時代のプライドがあって、なかなか施設の高齢者仲間に溶け込めないとも聞きます。この作品の主人公はおそらく作者のご主人かと思いますが、施設に対する抵抗感からようやく抜け出たかに見えて、そっと胸をなでおろしてでもいるような作者が想像されます。自分を送り出してくれる家族への思いやりなどではない、ごく自然な「馴染み」にほっとさせられた時の作品です。

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山菜(やまな)摘むと長靴履(は)けばまた想う鱗(うろこ)付きたる海の長靴 (石巻市駅前北通り・津田調作)

【評】山菜どりに履いた長靴に、思わず若き日に履いた漁労の長靴を思い浮かべた作者。仕事に向かうときは必須大切だった長靴と「こんなに違う」という実感をまえに瞑目しているのかも知れません。あの頃は「命と生活が懸かっていた」長靴。今日の山菜どりの長靴から受ける感じは「充実しつつも空っぽな時間」かも。その落差のなかに人生を噛(か)みしめて納得している作者の姿が見えます。

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何時(いつ)となく心身すでに分離して朝のドラマに涙湧く日々 (石巻市恵み野・木村譲)

耐震の検査をしてもこの古家どうにもならぬ年金暮らし (石巻市駅前北通り・庄司邦生)

百姓(ひゃくしょう)に生まれ育った我が耳にいまだ親しき田蛙の声 (東松島市大曲・阿部一直)

畔(あぜ)行けば田に入る水のゴーゴーと夏が近づく匂いとなりて (角田市角田・佐藤ひろ子)

乳母車押す教え子と語り合う二歳という子のまつげの長さ (石巻市南中里・中山くに子)

両親の杖つく姿うしろから見守りながら定義山(じょうぎ)に参る (石巻市水押・佐藤洋子)

母の日に孫子(まごこ)に花をいただくも仏壇に飾るはなやかなれど (石巻市中央・千葉とみ子)

平成よ良くも悪くもありがとう今日より令和の海に船出す (石巻市水押・小山信吾)

北上川(きたかみ)は五月の雪消(ゆきげ)を寄せ流る荒れ狂いし日を忘れさすがに (東松島市矢本・川崎淑子)

峰に咲く辛夷(こぶし)の花の揺れやまず風やわらかにうぐいすの声 (東松島市赤井・茄子川保弘)

震災時避難せし山に桜咲く生きよ生きよと鼓舞するごとく (石巻市不動町・新沼勝夫)

焼き芋屋の笛にわらわら出てみれば今日も買えない孫との約束 (石巻市丸井戸・松川友子)

訪ねきて丘に登れば咲き盛り桜ときそうかたかごの花 (東松島市矢本・本名宗三郎)

口開けば誰もが平成最後という津波の記憶ばかり大きく (石巻市向陽町・中沢みつゑ)

黒々と耕転されし乾田にやがて流れ来生命(いのち)の水が (東松島市矢本・奥田和衛)

桜咲く旭山より眺むれば眼下の集落(むら)の人いそがしき (石巻市須江・須藤壽子)

日和山に友と花見の酒を酌(く)む唄(うた)や踊りと冷酒に酔いぬ (石巻市三ツ股・浮津文好)