私は母に怒られたり褒められたりした記憶がありません。勉強しなさいと言われたこともない。
母は稲井公民館(石巻市)に用務員として勤務し、施設の管理も任されていました。私が6歳から10年間、公民館隣の官舎住まいで年中多忙でした。
この時代、公民館は社会教育の最前線でした。映画や講演会、習い事などさまざまな行事が続き、連日多くの人々が集いました。「門前の小僧習わぬ経を読む」のごとく、子どもながらにたくさんの話を聞いて、映画を見て、自分の立ち位置が決まった重要な時間だったと今感じています。
母は毎日、事務職の皆さんとガリ版刷りの公民館便りに文字を書くガリ切りなどの仕事を夕方までこなした後、貸し館対応で夜9時以降も清掃に追われていました。八面六臂(ろっぴ)の後ろ姿を見て育った私に、母は人のために頑張るんだと常に言っていました。その精神が知らず知らずのうちに私の身体に宿っていたのです。母が天国に旅立って十数年たつ今、気付かされました。
行輝という名前は、生まれた日の新聞に出ていた議員の名前が気に入って付けたそうです。高校受験の勉強中、母が教えてくれました。母が意図した訳ではないのに30年後、私は44歳で市議になり、9期30年、務めました。
「お母さんにお世話になりました」。市内各所で見ず知らずの女性にお声掛けいただくことがたびたびありました。稲井公民館に和裁や洋裁を習いに通っていた生徒さんたちでした。
東日本大震災の直後は被災者対応に追われ、母とゆっくり向き合う余裕がありませんでした。母は震災翌年に亡くなりました。さまざまな苦労話などもっともっと聞いておけば良かったと、天にいる母におわびしている今日この頃です。
(森山行輝 76歳 無職 石巻市新栄)