地震と津波、東京電力福島第1原発事故によって多くが犠牲となった大災害は、 命、人々の暮らし、教育、社会の在りようを根底から問い直した。 私たちが目指した「復興」とは何だったのか。 政府の復興期間の節目となる震災10年に向け、その意味を改めて考えた。
コロナ禍で休止を余儀なくされる語り部、悲しみと教訓のはざまで揺れる思い、被災庁舎を保存すべきかどうか…。震災伝承活動の現状を追った。
福島県の農林水産物が、原発事故後の価格低迷を克服できていない。安全であるにもかかわらず、不安視して買い控える風評被害が底流にあるとされる。
「創造的復興」の青写真は、政府の復興構想会議によって2カ月余りで描かれた。人口減少のさなかに起きた国難から立ち上がるため、何を議論し、どんな解法を示したのか。
石巻市大川小の津波事故訴訟で、学校の事前防災の不備を認めた仙台高裁判決が確定して1年。学校管理下で起きた戦後最悪とされる事故を受け、学校はどう変わったのか。
宮城県の復興の陣頭指揮を執ってきた村井嘉浩知事。平時であれば困難な巨大プロジェクトを次々に推し進めてきた。その本質は創造か、それとも惨事便乗か。
津波で甚大な被害を受けた多くの自治体が復興計画で目指したのが、コンパクトなまちづくりだ。岩手県陸前高田市、宮城県山元町の10年をたどった。
津波被災地で導入された防災集団移転促進事業。山を削り、宅地を造成する大工事は完了まで約8年かかり、新天地は人口減少と高齢化に直面している。
震災は、地域経済と人々の生活を支える「なりわい」も破壊した。中小企業や1次産業の事業再開が促された一方で、経営再建に行き詰まり力尽きるケースも数多くあった。
巨大な地震と津波、そして原発事故は日本社会に衝撃を与え、人々の価値観を揺さぶった。破局の淵から私たちは何を学んだのか、変わることができたのか。
震災からの再生の「司令塔」を担う復興庁が2012年2月に発足して10年目に入った。省庁縦割りを打破し、復興を推進する当初の目的は達成できたのか。
震災は被災者支援の在り方に再考を迫った。個別の課題に応じた「伴走型」の支援活動が進む一方で、災害法制の隙間や広域避難の実情を把握する難しさも浮き彫りになった。
避難行動から復旧復興まで数多くの反省と教訓をもたらした震災。南海トラフ巨大地震など「次」の災禍に備え、若い世代や全国各地の人々にどう記憶のバトンをつなぐのか。